桶川市議会議員 わたなべ光子ホームページ

私のひとり言を書いてみました!

<過去歴>日本の敗戦が伝えられた> 2020年08月15日(土)

   <過去歴>日本の敗戦が伝えられた>
◆ソ連参戦◆ 
ソ連参戦にゆれた8月9日。その直後天皇の裁断により本土決戦を主張する軍部をおさえポツダム宣言の受諾による日本の降伏が決まった。
           ◆玉音(ぎょくおん)放送◆
・「敵は新たな残虚な爆弾(原子爆弾)を投下し多くの罪なき人を殺し、その被害は測れ
  ない」 
・「このまま戦争を続ければ日本民族の滅亡を招くだけでなく」
・「人類の文明まで破壊してしまうだろう」
・「これから日本は、とてつもない苦難を受けるだろう」
・「国を思う民の心中はよくわかっている」
・「だが、私は時の運に従い、耐えがたいことを耐え、忍びがたいことを忍び」
・「未来のために、平和な道を開きたい」
太平洋戦争から1347日目、1945年(昭和20年)8月15日、その日も開戦と同じく青空が広がっていた。正午のラジオで日本の敗戦が伝えられた。国民が初めて耳にする天皇の肉声、玉音(ぎょくおん)放送でした。
◇医学生:山田風太郎(23)「負けたのか、信じられない。この静かな夏の日の日本か
 が、この瞬間から恥辱(ちじょく)に満ちた敗戦国となったとは」
◇作家:内田百開(53)「熱涙垂れて止まらず。この滂沱(ぼうだ)の涙はどういう涙
 かということを自分で考えることができなかった」
              ◆降伏文書調印式◆
・・・玉音(ぎょくおん)放送から18日後、太平洋戦争の終結が正式に認められる・・・
            ◇開戦から3年8カ月・日本敗戦◇
ポツダム宣言受諾降伏調印は9月2日、東京湾上アメリカ戦闘艦水リー号・甲板(かんぱん)において行われた。連合軍最高司令官マッカーサー(65)・イギリス軍バージバル中将
          ◆敗戦を異国で迎えた将兵は300万人◆
        ・・・サイパン・べりリュー島・硫黄島など・・・
 生き残った罪悪感にさいなまれているひとがいました。玉砕を免れた喜びをかみしめていた人もいたという。
 ニューグリテン島で敗戦を迎えた、漫画家:水木しげる(23)の言葉「”g玉砕”というのは、どこでもそうですが必ず生き残りがいます。将校・下士官・馬・兵隊・といわれる順位の軍隊で、兵隊というのは”人間”ではなく馬以下の生物といわれていたから、僕は玉砕で生きて残るというのは卑怯(ひきょう)ではなく”人間”として最後の抵抗ではなかったかと思う」
 

<過去ログ;長崎に原爆投下> 2020年08月09日(日)

      <過去ログ;長崎に原爆投下>
       ・・・広島に原爆投下(1945年8月6日8時15分)・・・
        ポツダム宣言から11日後、太平洋戦争1338日目、
                 ↓
       ・・・長崎に原爆投下(1945年8月9日11時2分)
 1945年8月9日11時2分、500メートル上空で長崎に原爆が投下される。7万人以上が犠牲になった。翌日の10日に撮影した山端庸介カメラマンの写真に添えられていた言葉「市内電車の惨状・左下の人の死体は全部乗客である。原爆の光があたり、濃い赤い色をしていた」。同行した記者東潤(41)の手記「もはやこの惨状に対して、あらゆる語彙(ごい)が今日限り私にとって無力となった。山端氏は冷静なまんじりを向け此処の現実にいくたびもシャッターを切る。いささかの感傷もない冷たいカメラの眼。これぞ筆舌につくせないものの貴重な記録でなくて何であろう。」・・・8月6日過去ログ参照・・・
 

<過去歴;広島に原爆投下(1945年8月6日8時15分、ポツダム宣言から11日後、太平洋戦争1338日目) ・ 長崎に原爆投下(1945年11時2分) 2020年08月06日(木)

  <過去歴;広島に原爆投下>
ポツダム宣言から11日後のことだった。太平洋戦争1338日目、1945年8月6日8時15分
広島に原爆が投下された。この年だけで、およそ14万人がぎせいになった。
              ↓
           <太平洋戦争(ポツダム宣言)>
・・・2015年07月26日(日)AM0時52分〜NHKテレビから転記する・・・
        「カラーでみる太平洋戦争3年8カ月・日本人の記録」
              ◆沖縄戦◆
 ふんどしの切れ端を白旗にしてアメリカ兵の前に現れた少女がいた。少女はまるい穴から狙われているのにきずき、笑いかけた。少女は右手で白旗を肩に、敗れてお尻半分が見え、ずり落ちそうなモンペをたくし上げていた左手を放して、手を振った。少女は白旗を掲げたまま小走りになった。「私は生きている」私は海を見ながら思い切り叫びたくなった。
             ◆沖縄戦の以降◆
 アメリカ軍による本土空襲が激化していた。地方ん都市を襲った機銃放射の映写から地上のありとあらゆるものが標的となっていたことが分かる(飛行場・民家等・浜辺で遊ぶ人・空襲の巻き添えになった歴史的保存文化財の名古屋城・人の命を奪うだけでなく全国各地で積み上げられてきた町の歴史や文化をも破壊していった)すべての都道府県で犠牲者が出て主要都市の大半が焼け野原のなった(岡山・群馬県前橋・大阪・神戸・大分)
             ◆ポツダム宣言◆
 1945年(昭和20年)7月26日、アメリカ・イギリス・中国は戦争終結の条件を示したポツダム宣言を発表した。しかし、日本政府の中では、降伏をめぐる意見が対立をしたまま、結論が先送りをされた。
             ◆広島に原爆投下◆
 ポツダム宣言から11日後のことだった。太平洋戦争1338日目、1945年8月6日8時15分広島に原爆が投下された。この年だけで、およそ14万人がぎせいになった。
             ◆長崎に原爆投下◆
 1945年8月9日11時2分、500メートル上空で長崎に原爆が投下される。7万人以上が犠牲になった。翌日の10日に撮影した山端庸介カメラマンの写真に添えられていた言葉「市内電車の惨状・左下の人の死体は全部乗客である。原爆の光があたり、濃い赤い色をしていた」。同行した記者東潤(41)の手記「もはやこの惨状に対して、あらゆる語彙(ごい)が今日限り私にとって無力となった。山端氏は冷静なまんじりを向け此処の現実にいくたびもシャッターを切る。いささかの感傷もない冷たいカメラの眼。これぞ筆舌につくせないものの貴重な記録でなくて何であろう。」
               ◆ソ連参戦◆ 
 ソ連参戦にゆれた8月9日。その直後天皇の裁断により本土決戦を主張する軍部をおさえポツダム宣言の受諾による日本の降伏が決まった。
            ◆玉音(ぎょくおん)放送◆
        ・・・(昭和天皇による敗戦の言葉)・・・
・「敵は新たな残虚な爆弾(原子爆弾)を投下し多くの罪なき人を殺し、その被害は測れ
  ない」 
・「このまま戦争を続ければ日本民族の滅亡を招くだけでなく」
・「人類の文明まで破壊してしまうだろう」
・「これから日本は、とてつもない苦難を受けるだろう」
・「国を思う民の心中はよくわかっている」
・「だが、私は時の運に従い、耐えがたいことを耐え、忍びがたいことを忍び」
・「未来のために、平和な道を開きたい」
太平洋戦争から1347日目、1945年(昭和20年)8月15日、その日も開戦と同じく青空が広がっていた。正午のラジオで日本の敗戦が伝えられた。国民が初めて耳にする天皇の肉声、玉音(ぎょくおん)放送でした。
◇医学生:山田風太郎(23)「負けたのか、信じられない。この静かな夏の日の日本か
 が、この瞬間から恥辱(ちじょく)に満ちた敗戦国となったとは」
◇作家:内田百開(53)「熱涙垂れて止まらず。この滂沱(ぼうだ)の涙はどういう涙
 かということを自分で考えることができなかった」
               ◆降伏文書調印式◆
・・・玉音(ぎょくおん)放送から18日後、太平洋戦争の終結が正式に認められる・・・
            ◇開戦から3年8カ月・日本敗戦◇
ポツダム宣言受諾降伏調印は9月2日、東京湾上アメリカ戦闘艦水リー号・甲板(かんぱん)において行われた。連合軍最高司令官マッカーサー(65)・イギリス軍バージバル中将
          ◆敗戦を緯国で迎えた将兵は300万人◆
        ・・・サイパン・べりリュー島・硫黄島など・・・
 生き残った罪悪感にさいなまれているひとがいました。玉砕を免れた喜びをかみしめていた人もいたという。
 ニューグリテン島で敗戦を迎えた、漫画家:水木しげる(23)の言葉「”g玉砕”というのは、どこでもそうですが必ず生き残りがいます。将校・下士官・馬・兵隊・といわれる順位の軍隊で、兵隊というのは”人間”ではなく馬以下の生物といわれていたから、僕は玉砕で生きて残るというのは卑怯(ひきょう)ではなく”人間”として最後の抵抗ではなかったかと思う」
         ◆3年8カ月に及んだ太平洋戦争◆
 日本人だけで、300万人以上が犠牲となり、世界の各地に傷跡を残した戦争が終わりました。
◇1945年9月2日東京銀座、戦後の出発点となった今から70年前焼け野原の中で、
・永井 隆(長崎の鐘)が残した言葉です「私たちの仕事はこれからではない
 か。国家の興亡とは関係ない個人の生死こそ私たちの本務(ほんむ)である。」
◇ある日本人は言った。
・福岡:「われたたずんばといいながら私はよろよろと立ちあがる」
・大分:「さらば我もと、みなたちあがる」
・神戸:「活気は再び私たちの間に満ちてきて、顔面皮膚が、おのずから緊張する」
・兵士たちの帰還:「戦争だ何が何でも理屈なしに頑張れと強いられて動くのではない。
 この一人の命を救うものは、われのほかにあらずと、自ら進んで出てきたのである」
・永井 隆(長崎の鐘):「”カーン カーンカーン”鐘が鳴る。澄みきった音が平和を
 祝福して伝わってくる」「人類よ戦争を計画してくれるな」
 


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